◆日頃一般ニュースで報じられることの少ない債券市場の動向であるが、今日に限っては大きく取り上げられた。 それもそのはず、一日で長期金利が0.4%(一時)も上がったのだから。 金利10%の国でも0.4%は小さくない変動である。 1%そこそこだった日本で一日でこの変動は債券暴落と呼んでもよい類のものだろう。 今日の下げでかすんでしまったが、昨日までも債券は相当のペースで下げてきていた。 マスコミはそれを拡張型来年度予算のせいにしていたが、筆者は非常に奇妙な感じがした。金融市場に縁もゆかりもない市井の人々にとっては、朝読んだ新聞に「景気刺激へ拡大型予算、財源に占める国債の割合は過去最高水準」とあるのを見て「ああ、景気対策はかくも財政悪化を伴うのだな」と思うのが自然なのかもしれない。 しかし、国債を市場で売買しているのはプロ中のプロである。 そんな彼らが半年近く前に決まった緊縮財政から拡大財政への転換を知らなかったはずがない。折しも10月より株価が回復基調だったのも内容はともかく、政府がようやく本腰を入れた景気対策に取り組む姿勢を見せたからであった。 株式市場の最近の動向からして、今度の予算は市場関係者の度肝を抜くような大きなものであったとは到底言えず、まあ予想の範囲内だったと推測される。 ならば債券価格の動向を左右する材料にはならなかったはずである。 それにもかかわらずこれほど金利が上昇してしまったのは、これまでどんどん国債を買い込んでいた日銀・大蔵がもう買わないらしいということになってきたからである。 つまり債券の需給が緩むことを懸念しているには違いないのだが、それは「国債増発」という供給増よりむしろ「買い入れストップ」という需要減を懸念したものである。 マスコミもようやく今週になってそのことに気付き、大蔵大臣・日銀総裁の発言に注目したが、こともあろうに宮沢蔵相は大蔵省資金運用部による国債買い入れ停止を婉曲的ながら肯定し、金利上昇についても「大したことはない」と市場の過反応と言いたげであった。 また速見日銀総裁も日銀のポートフォリオに占める国債の割合が中央銀行にしては「一般的でない」ほど高いことに言及し、暗にこれ以上の国債買上げに否定的なポーズを見せた。 当然金利高騰を牽制する発言があるだろうと思っていた市場関係者は驚き、投げられるものは投げた結果債券のみならず、円、株のトリプル安となった。 これに対し、「金利は上がったとはいえまだ2%以下で、むしろこれまでが低過ぎたのでありガタガタいう水準ではない。」という声もある。 たしかに日本政府の財政状況に比べてこれまでの長期金利は異常なほど低かった。 それはただ「低くなければならなかった」からであり、「政府は何としても低い水準を維持しようとするだろう」と皆が思ったからである。 財政状況が悪いのは民間企業も同じであり、債券に関しては市場にはほとんど参加することのない個人を除いて皆が上げ賛成であった。 日本国債という債券は日本国財政の破綻リスクに見合った金利形成ではなく、期待とそれを基盤にした好需給によって財政内容とかけ離れた金利水準で取引きされてきた。 ではその「異常な」金利水準から2%という少しは「まともな」金利水準になったのなら問題はないのであろうか。 そんなはずはない。 何しろ低くなければならないと誰もが思うような状況で金利が目に見えて上昇することは当然問題であるが、同じこの水準であっても3%から徐々に下がってきて2%弱に落ち着くのと、1%以下まで下がっていたのがここまで上がってきたのとでは大きく違う。 当然ながら相場の天井では全ての債券保有者に利が乗っているのに対し、急落後ではかなりの損失を抱えた者が出る。 民間の大口国債保有者の多くは金融機関であり、債券は土地、株が壊滅状態にある彼らにとって最後の砦であった。 債券バブルが崩壊すれば余裕のない金融機関は債券を投げざるをえなくなり、もともと債券が実態とかけ離れた高値で取引きされていればいるほど、下値のめども立たず投げが投げを呼ぶ展開になりやすい。 それ以外にも多くの負債を抱えてこの超低金利でも青息吐息の企業も多く、1%の金利上昇でも「最後の一押し」となる可能性は小さくはない。 筆者の記憶では民間邦人部門の有利子負債は600兆円ほどはあるので、その半分の残高で金利が1%上がれば法人税引下げ分は吹っ飛んでしまう。 またせっかく税制面で住宅投資を促進しようとしているときに住宅ローン金利が1%も上がればこれまた効果帳消しとなってしまう。 もちろん、政策的に住宅ローン金利を下げたままにすることもできるだろうが、つい先日引き上げを発表したことから、律儀に従来のルール(財投金利との連動)を守るつもりなのだろう。 またこの低金利があっても尚株式相場は危機的といわれる水準でうろうろしていたのである。 金利上昇は直接的に株式に要求されるリターン上昇という形で、また企業収益圧迫を通じて間接的に株価を下落させる要因となる。 内需関連企業より外需関連企業の方に生きのいい会社の多い日本ではこのところの円高により全体としての企業収益はすでに相当圧迫されている。 国債の大蔵・日銀による買い入れ(特例として引受けでも)には金利を押さえると同時に円安誘導効果があるので、本来なら円安は容認しながら国債を買い支え続ける方が景気浮揚効果がある。 ところがこともあろうに、これほど円高に振れているにかかわらず国債買い入れを減らそう(止めよう)というのだからいったいどういう意図か理解に苦しむ。 もちろん、変な介入をせず経済は自助努力と市場メカニズムに任せるというスタンスも選択肢としては存在する。 しかし、小渕首相/宮沢蔵相ともソフトランディング派である。 これ即ち「手を貸してでも、市場メカニズムを多少歪めても、できるだけ潰さずに」ということである。 それならば、ここに来て「国債は市場に任せる」と言いだすのは全くもって支離滅裂である。 市場に任せる・ルールに厳格で行くのであれば、不良銀行の淘汰・取り潰しはとうの昔に終わっていてしかるべきであろうし、公共投資の大盤振舞よりは大減税が筋であろう。 つい3月まで護送船団方式でやっていたと思ったらいきなり日債銀に死刑宣告してみたり、株式PKOをしていたと思ったら債券からは手を引くと言う、、、全く一貫性が見られない。 経済通を要所につけたことになっているが、本当に経済通なのか疑わざるをえないような手綱さばきである。 思えば速見日銀総裁も以前調整インフレ絡みの質問に対し、物価安定を放棄することはない旨答えていた。 中央銀行総裁として教科書的な返答であろうが、今の日本の状況からして金利の安定(引下げ)は物価の安定と同等以上に大切なはずである。 長期が多少上がっても短期を低目誘導しているのだから大丈夫だと思っているのかもしれないが、その短期を低目誘導するために日銀はいったい何を買っているのか。 CPに手形など、どこの企業のものか知らないが国債より危ないものばかりではないか。 大蔵だって米国債を山ほど抱えているではないか。 まさか自分の国の国債より貯蓄率がゼロで巨額の貿易赤字をたれ流し続けている国の国債の方が明らかに低リスクだと思っているわけではあるまい。 結局のところ、スタイリッシュな速見、宮沢両氏には国債買い入れなどという泥臭い、姑息な手段や美しくないバランスシートは自らの美学に合わないということに過ぎないのではないか。 銀行の自己資本比率8%という(中身より)数字にこだわって貸し渋りを招いたことが教訓になっていない。 自分の管轄にある円相場が下落するのは自分の価値が落ちるようで嫌だし、デフレは困るが物価安定を軽視し調整インフレなどという新興宗教に走るなどはみっともないったらありゃしない。 彼らにとって「エコノミカリー コレクト」であるかどうかが問題なのであり、実際日本経済が浮揚するかどうかは二の次ではないのか。 私のような一投資家にこのように勘ぐられるのが不本意であるならば、銀行への指導による半強制的貸し出し要請および信用保証の乱発によるなり振り構わぬ資金供給をしておきながら、長期金利上昇を容認するような分裂症的対応を改めるなり、納得のゆく説明をするなりしていただきたいものである。 98/12/20(日)「買うべきか買わざるべきか:葛藤その2」 ◆日債銀が9月末の時点ですでに債務超過に陥っていたことを金融監督庁の検査で知っていながら、まったく違った内容の決算発表を黙認し結果としてその間新たに日債銀の株主となった投資家に損害を与えたことについて、政府は「やむを得なかった」として責任を否定した。 また日債銀側も当局の検査とまったく異なる情報開示について見解の相違として粉飾は否定しながらも、公的管理移行にはさしたる抵抗もしなかった。 これに対して、去る3月に奉加帳を回されて結果としてまんまとババをつかまされてしまった生保・損保業界から明に暗に政府の「だまし討ち」を批判する発言が出た。 しかしこれらの発言は自らの加入者および株主に対して「自分のしたことは背任行為ではないのだ」というアピールの域を出ないものであろう。 奉加帳方式というもの自体が「まあまあ、ここはひとつ、、」という実質的には強制であるのだが、形式的には拘束力がなく自発的な出資(支援)をさせるという摩訶不思議なものであるので、法的に訴えても勝ち目はうすいであろう。 ということで日債銀の株式は無価値となってしまったが、欺した側の責任は不問に伏され、欺された者(最後の株主)だけが馬鹿を見ることとなりそうである。 これと対象的なのが金融債の処理である。 破綻銀行の預金が無制限で保護されることは本来おかしなことであるのだが、それでもまだ各銀行は安過ぎるとはいえ預金保険料を預金保険機構に支払っている。(預金からのピンハネだという批判はあろうが) これに対し、金融債は債券であるということから長期信用銀行は保険料を払っていなかった。 逆に言えば金融債の所有者は実質デフォルトとなったノーヘッジの債券を国によって肩代わり償還してもらったようなものである。 株式が債券に比べて財産へのクレイムが劣後となるのは、出資金は資本であり社債は債務であるのでそれ自体は致し方ない。 しかしながら山一証券の場合でも今回の場合でも、会社は債務超過であり社債保有者への残余財産が不十分な状態である。 にもかかわらず全額償還(保証)するというのは債券保有者の明らかな優遇である。 このような株式所有者への仕打ちが続く限り、いくら金利が安くとも株式への資金シフトはなかなか起こってはこないだろう。 利回りや信用リスク以外のファクターが大き過ぎるからである。 一番安全であるとされる郵便貯金も、財政投融資の闇に眠る潜在不良債権を考慮すれば資産の劣化は相当進んでいるはずであるが、その責任も問われなければその現状も公表されない。 郵政事業の民営化への抵抗が強いのは、特定郵便局長の抵抗もあろうが財投の中身が白日の下に晒されるのを何より恐れるからであろう。 このように怪しげな運用をしている巨大な国営投資信託に巨額の資金が集まり、資金を必要としているまともな民間企業が公募増資もままならないという事態は実にゆゆしきものである。 これに対し政府は各地の信用保証協会を通じて、事業の将来性にほとんど関係ないバラまき融資でお茶を濁そうとした。 本当に必要なのは融資でなく資本であり、この対策もその場しのぎの彌縫策である。 公認会計士の監査を受け、有価証券報告書を提出している企業ですら粉飾が日常茶飯事であるという現実で株主責任だけ厳格に問おうとすれば、損得勘定のできるものであればよほど魅力的な会社の株式以外には手を出すのは控えるであろう。 折からのデフレもあり、個人では資金を増やす必要は余りなく、ただ安全に資金を維持できればよいからである。 そういう仕事に携わっている方々には申し訳ないが、多くの機関投資家には資金運用者としてのまともな損得勘定が備わっているとは見做し難かった。 株式を大量に所有しておりながら非合理な経営を見過ごし、金融機関の成果の疑わしい再建計画にも増資や劣後債/ローンを引受けるなど、運用成績よりも金融界内の付き合いを優先するような姿勢が目立った。 そんな彼らも外資系投資顧問の参入などによる競争激化で当局の方を向いた資金運用はできなくなりつつある。 このままでは買い手不在の中持ち合い解消や不採算株式の売り切りによる需給の悪化により、株価底割れというシナリオが現実となりかねない。 自らが投資していなくとも株価を景気のバロメーターとしている人々も多いことから、一段の株価下落は人々の景気に対する見方を一段と暗くすることになり、結果としてただでさえ低迷する日本経済の足を引っ張る可能性が高い。 しかしながら、株価の下落なくして株主とくに個人株主に対する優遇策(というより冷遇改善)は出てきそうにない。 もし投資家全体を一つの人格に例えるとすれば、「売って、売って、売りまくって、投資家を理不尽なほど冷遇し続けるとどうなるかをを政府や国民に思い知らせて必要な法律・政策を引出し、その上で本腰入れて買いに出よう」と思うことであろう。 ここにこそ今日の日本の投資家が抱えるジレンマがある。 自分たちはよりよい投資環境が欲しい。 しかし残念ながら相場が安定していてはそれは用意されないし、求めても実現できない。逆に相場が下がれば政策の変更(投資家優遇)も期待できるが既に投資済みの分の含み損が巨額に及ぶ上、事と次第によってはそのまま恐慌となり全てが水の泡と帰す恐れさえある。 相場が上がれば課税強化や非合理な経営や法体系の存続につながるし、下がれば改革は期待できるがその成果は未知数である。 一投資家に帰って考えれば、全体のことなど自分にどうするわけにもゆかないし、ただリスクの割にリターンの大きそうなものを黙々と拾ってゆくしかないのであろうが、自らの投資行為が結果として逆に必要な改革を遅らせることになるのでは何ともやるせない。 このような「投資という行為が割に合わない」状態が続く国の経済が発展するとは筆者にはどうしても思えない。 投資家の側にもひどい仕打ちの割にはあまり物を言わない面もあるので前回は敢えて「泣き寝入りするべからず」と書いたが、オプションや先物取引の敷居を高くするというような投資家保護の名を語る偽物に代わって、情報公開、粉飾への罰則強化、および税制面での支援といった真の投資促進策を国が率先して進めるべきであるということは言うまでもない。 98/12/14(月)「長銀と日債銀の大株主は泣き寝入りするべからず」 ◆延々と店晒しとなった長銀とは対照的に日債銀が突然公的管理となることが決まった。 経営陣も一応は反発したものの、公的管理下で再建を目指すのが得策と国有化を容認したため、株式は紙くずとなる公算が強まった。 前々から破綻の筆頭候補として名の上がることが多かった銀行ではあるが、曲がりなりにも去る三月に公的資金による資本注入が行なわれた上、当局により奉加帳が回され国内の幅広い金融機関もこれに加わっている。 いかに危ういという噂が広まっていたとはいえ、その実態は公表されていなかったのであるから、株主が投資の全てを自己責任として失うことを強いられるということは、国や公認会計士のお墨付きより風説に重きを置いて投資せよというようなものである。 誤解のないように書いておくが、筆者は長銀・日債銀の株式を今まで持っていた投資家が正しい判断をしたとは思っていない。 それまでの銀行破綻のいきさつから当局および銀行自身の公表情報があてにならないことは大概の投資家にはわかっていたはずである。 それにもかかわらず敢えて「泣き寝入りするべからず」と言うのは、一部の欲に目がくらんだ投資家を援護するよりも、有価証券報告書と当局の健全であるというコメントに何の責任も伴わないのであれば、投資という行為の根幹が揺らいでしまうからである。 また経営陣がいい加減な情報公開で欺いてきた株主に対し、形式的に国有化拒否の姿勢は見せたもののすぐ公的管理の下の再建に言及するなど株主軽視も甚だしいからである。 両銀行とも資産を相当甘く査定しない限り現時点において債務超過となっているのは本当であろう。 また両行とも銀行としての信頼は相当失っており仮に生き延びたとしてもビッグバンを迎えれ国家による保証がなくなれば営業を続けてゆくのは極めて困難だったであろう。 しかしそれならば国が資本注入をしたのは明らかな過ちである。 べき論としては以上のように簡単なことであるが、一連の問題金融機関の処理はとにかく実態を隠して生き延びようとする金融機関と嘘を承知の上でできるだけ破綻なしで切り抜けようという当局との出来レースであるので、金融機関側に大量の逮捕者がでるようなことになると政策当局側の責任を問う声が強くなる。 ゆえに破綻金融機関から適当に2ー3人本筋と違うところで逮捕者を出しておしまいにしようとするであろう。 それで終わらせないためには、明らかに責任があると思われる人びとを株主が訴えることが必要である。 幸か不幸か、長銀・日債銀ともメジャーな銀行であるので外国人株主も多数いると思われる。 当然ながら彼らの中から裁判を起こすものは出てくるだろう。 もし誰か勝訴するものが出れば我も我もと同様な裁判が相次ぐであろうが、そのような勝ち馬に乗るような株主は軽蔑されることはあっても尊敬されることはなかろう。 今立ち上がるからこそ正しい情報公開という大義名分があるのであり、誰かが勝ったからと特に国を相手に損害賠償でも求めれば、自らの不明と欲を晒すことになる。 両銀行ともここ数年金融関係の読み物に目を通していた人なら投資適格とは言えないことはわかったはずである。 繰り返しになるがだからといって政策当局や銀行が責任を免れることにはならない。 うすうす分かっているだろうと嘘の情報を公の場や文書で流すことは断じて許されない。 国家の大事におよんでやむを得ず禁じ手を使う場合は重責を覚悟の上でなすべきである。 その自覚なくして嘘をつき、それ相応の責任もとらずに平気でいる人びとはその破廉恥ぶりで後世に名を残すことになるよう、少しでも投資にかかわる我々は彼らの名前と行状くらいは肝に銘じておきたいものである。 ◆先日プロ野球選手やサッカー選手などに長年脱税指南をしてきたコンサルタントが4年6か月の実刑に処せられるという判決があった。合計の脱税額がいくらだったか知らないが筆者は4年を越える実刑に驚きを禁じ得なかった。銀行、ノンバンク、証券、ゼネコン、公益法人など様々なところで少なくとも何十兆円という金が不良債権化し、その少なからぬ部分が損失確実となっているが、倒産したり総会屋が絡んだりした場合をのぞいて損失承知で貸し付けたという背任罪で4年もの実刑になった例を聞いたことがない。 今回は脱税「指南」ということであるから、フィクサーとかブローカーとか呼ばれる人たちと比較するべきなのかもしれないが、不良債権に絡んでそのような人たちが多く起訴され長期実刑になってという話も聞かない。また脱税行為はたしかにけしからんことではあるが、自分の成績や出世や天下りのためにリスクを度外視した投資・貸出しを行い、その結果何十億、何百億という自分が一生かかかっても到底返せないような損失を出してしまうような行為も脱税に負けず劣らないことではあるまいか。 これはあくまで筆者の主観であるが、他人の金を莫大なリスクにさらす(損失覚悟で)不正収入を得ることの方が脱税より罪が重くて良いのではないか。脱税が非合法的収入に結びついているような場合をのぞいて、脱税されたお金は正当な経済活動から得られたものである。法律だからと言えばそれまでであるが、現状のような懲罰的累進課税そのものの正当性も疑問である。高額所得者は社会の役に立つことを行って得た所得でもその大半を納税することを要求される。これに対し、接待、天下り、裏金等を受けての背任行為はいわば自分が忠誠を尽くすべき組織に損害を与える代わりにはじめから税金のかからない報酬を受け取るものである。あるいは、将来の損失を覚悟の上、現在の成績を取り昇進や賞与という報酬を受けとらんとするものである。 それが民間での焦げ付きにとどまっているうちはまだしも、その余りの蔓延ぶりに昨今のように公的資金による尻拭いが続出するような事態を招けば責任は更に重大である。また公益法人での焦げ付きも同様である。これは国民に対する背任であり、額も並みの脱税事件とは桁が違うのでより責任は重大なはずである。ところが、これらを築いた人々の多くは実刑となるどころか、捕まってもいないし、多くは会社や公団をクビになってもいない。会社が潰れた場合には退職金までいただいて再就職している戦犯も少なくないことだろう。 同じようにバランスを失っているものに、SECによる不正取引の取締りがある。 これまで摘発されたケースの多くが個人が会社に関する不利な情報を得て、その公表前に株式を売りぬけたという古典的インサイダー取引である。彼らが有罪であることに異論はないが、株価チャートと業績発表をよく見比べてみればわかるように、それは日常茶飯事で捕まった側からすれば駐車違反やスピード違反で捕まったようなものである。これに対して、公開前後の粉飾決算や、エクィティファイナンス絡みの株価操作および自社株の公開買付を利用した特定株主からの株式の買取りなど、より悪質というか社会的影響の大きい問題行為は事実上野放しである。また何より当局による株価操作は免罪となっている。 これは経済の世界に限った話ではない。たとえば、選挙違反が摘発されると捕まるのは必ずと言ってよいほど落選した候補者である。これほど極端な偏りは確率的には説明が付かない。結局ほとんどの場合「勝てば官軍」となっているのであろう。これと同じような例は粉飾決算などそこらじゅうにあるのに、捕まるのは会社が潰れた場合だけである。粉飾(*)の結果おきた株や債券の価格変動で投資家がどれだけ不当な損害を受けようとその責任は問われない。(*不良在庫や設備および明らかな不良債権を何年もそれとして計上しないこと) おびただしい数の無駄と思える公社・公団の整理が進まないのは、役人の天下り先死守という面もあるが、整理すると責任問題があちこちで発生するからであろう。同じように一部銀行でも責任問題になるからと不良債権処理は遅々として進まず、最近になって「責任問わず」となってから公的資金申請の上でようやく本格処理に入るところも出ている。「責任を言っていたら処理が進まない」というのは一面事実であろうが、「責任を問われたくないから処理を先送りする」ことが許されることこそが問題ではないのか。 国税局はどこかに儲けを隠していないかと探すのに躍起になっているが、その何分の一かの精力でもいいので損を隠していないかをチェックする機関がないのが不思議である。本来公認会計士および監査法人がその役にあたるのだろうが、チェックする対象から報酬をもらっているものに真のチェック機能は期待できない。脱税以外の経済犯罪に対する処罰もずっと厳しくするなり、監査法人に対する格付けを導入するなどが必要だろう。
ーーー等々。 話のきっかけが脱税事件だったので政治・行政のあり方ばかり嘆いているように見えるかもしれないが、投資家や一般国民もバランス感覚を失っていること同じではないか。 東京都内の土地の価格がアメリカ全土より高くなったとか、東証の時価総額がGNPの1.5倍までも買われたとか、高成長の新規公開株はPER50倍、100倍が当たり前とか今からは信じられないような行動を取ってきた。 世論もまた、経済改革こそが急務だった90年代前半に理念のはっきりしない政治改革ばかりにこだわった。 また政治改革で「政治家自身がローコストでクリーンになること」が過度に注目されたので、土光氏が先鞭をつけた行政改革の方がどこかへいってしまい、現在まで高コスト体質は温存され表に債務、裏に不良債権の山が築かれた。 小説や漫画の世界ではデフォルメは必要な技法であるが、実社会とくに投資の世界ではパースペクティヴ(遠近感:バランス感覚)は欠かせない。 「純粋まっすぐ君」は困るが、何ごとも斜に構えて「どうせ駄目」も同様に問題である。 正面に構えながら、たまにはちょっと引いて違った角度から物事を眺めてみることができる人が多い社会ほど成熟した大人の社会と言えるのではないだろうか。 ◆ここ数日自自連合のことでマスコミは忙しいようだが、はっきり言ってまた彼らはろくでもないことばかりを取り上げている。 閣外協力か連立か、大臣数の削減に自民が応じられるか、次回の選挙協力をにらんで反小沢議員が納得するか、党首会談の合意は守られるかなどまるで政治版ワイドショーのごとくである。 そんなことはいずれ放っておいてもわかることであるし、市場関係者ならともかく一般国民にとって事前にわかったところで仕方がないことばかりである。 今回の政治劇の要点は、小渕・小沢会談が政治のねじれを戻し、数合わせではなく理念・政策による政界再編に結び付くかということであろう。 誰が見ても現在の自民党は一枚板とはいえず、保守とリベラルと単なる利権政治家の寄せ合い所帯である。 民主党もリベラルと労組型守旧政治家の混交である。 自社さなどという世にも奇妙な政権ができたのは政策も理念も二の次、三の次だったからである。 今肝心なのはできるだけ早い時期に国会で白熱した政策論議が行なわれ、情や利権ではなく理にかなった政策が取られるようになることである。 こんなことは何も私などが言わなくとも政治や経済に携わるものなら誰でもわかることのはずであるが、それらを専門に追いかけているマスコミがこれほど枝葉末節ばかりにこだわるのはなぜか。 それは未だに大手マスコミに「中道より右はタブー」という極めて古いイデオロギー上の建前があり、その呪縛のせいで明らかな本音の部分が妙に押し殺されているからではないか。 彼らはもはやイデオロギーの時代は終わったと言っているのに、何とも皮肉な話である。 わかりやすく言おう。 政策論議が起こるということは、日本は正々堂々と再軍備をするべきだというものも堂々と発言することであり、消費税や一部年金の対所得逆進性がなぜ悪いと言うものがでてくることであり、現状はよく言われる大企業優遇というより企業搾取だというものが出てくることである。 何の義務・条件もつかない基本的人権など認めないと言うもの、自由は責任がとれるものだけに与えられるべきだと言うものが出てくるということである。 更には「税金や社会保障費は安く、社会設備や福祉は手厚く」「多くの規制は撤廃して欲しいけれど自分たちへの保護は無くさないで欲しい」と平気に言うようなものに選挙権はやれないと言ったり、教科書の自虐性を会員制の雑誌で語ったからと言って教科書検定委員が更迭されるのはおかしいではないかという政治家が出てくるかも知れぬということである。 逆に言えば、これまで日本に政策論議が起こらなかったのは、まさに上記のいわゆる「右」の論を排した仲間内のおしゃべりだけが国会およびマスコミを支配してきたからである。 そのような「温和で民主的な」枠組みの中では重箱の隅をつつくような議論しか起こらないし、今日本が直面している問題も到底解決できない。 なぜならば「日本問題」の大半がその微温的な場から生まれてきたからである。 「まあそうきついことは言わなくともいいではないか。 みんな仲間だ。 困っている者をそう責めるもんじゃない。」 かくしてあらゆる痛みを伴う改革は先送りされ山盛りの公的債務が残った。 民間でも至るところで「飛ばし」や粉飾が行なわれている。 ほとんどの場合責任はうやむやになるので飛ばして逃げた者勝ちである。 政策論議が起こるためには、上で例をあげたように現状からは破天荒とも思えるが世界的・歴史的には珍しくもない意見を「何を言っているんだ、君は」「問題発言だよ、それは」などという仲間内だけで通用する脅しで封殺するのではなく、筋を通して論破しようとする姿勢が必要である。 しかし現状はマスコミに一番その姿勢が欠けている。 大手マスコミつまりテレビと新聞は視聴率と部数が命であるが、それを「耳障りの良さ」で獲得しようとしている。 現実を読者/視聴者が心地よいような切り口で調理して出すのである。 長年マスコミに甘やかされれば甘やかされるほど、国民は自分を正当化してくれる意見にしか耳を貸さなくなり、厳しいことを言うメディアを遠ざけようとする。 そういう国民に投票してもらうために政治家にもどんどんポピュリストが増える。 まさしく悪循環である。 現在のような大不況は経済的には大問題であるが、政治的には好機でもある。 通常であれば受け入れられにくいが必要な改革(現在で言えば法人税や土地流通税の減税や年金支給額/方式の変更、政府の役割の見直しなど)の経済的な必然性が浮かび上がっているからである。 そのことを小沢氏は解っているし、自民党のリベラル勢力との連携を模索し始めた菅氏も小沢氏と小沢氏寄りの自民党勢力の意図を分かりはじめている。 やれ小沢はやはり利権が欲しいのだの、菅は女性キャスターとどうだとか、宮沢派の代替わりがどうの山拓氏の独立がどうのと言っているマスコミも何が本流かはうすうす感じているはずである。 奇妙な建前のために焦点をぼかしてばかりいるようなマスコミは情報網の一段の発達とともに不要となるであろうが、その自然淘汰を待つ間にも後世への付けは増え続ける。 21世紀半ばには日本の20世紀最大の失敗はマスコミをのさばらせたことだということになっているかもしれない。 |