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【バックナンバー】 99/1/30(土)「日銀の国債引受け」 ◆景気の好転を示すこれといった兆候は出ていないにもかかわらず、日本の株式市場は上昇に転じているようだ。 円高と金利上昇はともに立ち上がろうとする景気に逆風となるので、「どうして今ごろ」「PKOではないか」といぶかる人も少なくないようである。 そこへ最近になって、公的資金をあてにした銀行のゼネコン債権放棄が進むかたわら、公的資金による持ち合い株式および土地買上げ機関創設の話が持ち上がって来た。 折からの減税で税収不足は甚だしく、国債の格下げが噂される中で、そんなに気前よくあれこれに公的資金が使える状況ではないのに不思議な動きである。 今日(29日)の日経新聞にもちらっと出ていたが、これは国債の日銀引受けを前提としての議論としか思えない。 まずなぜそれらが国債の日銀直接引受けを前提にするか、以前より当コラムをお読みでない方のためにここでもう一度説明したい。 金融機関およびゼネコンの不良債権処理こそが景気回復の鍵であるとの考え方があるようであるが、これは供給サイドの健全化である。そして日本がデフレに苦しんでいるのは需給ギャップ(需要の相対的不足)による。 ゆえにこれほどの財政悪化にかかわらず大規模な財政政策を政府は打ち続けているわけである。 この状況で、銀行が健全化して貸出余力が出来たとしても、それは需要喚起には結び付かない。 またゼネコンが淘汰を免れたからといってそれで需要が創設されるわけではない。利下げの余地はもはや少なく、いくら台所事情があるからとはいえ財政支出は大きくカットするわけにはゆかない。 GDPを上回る公的債務残高を抱えて財政出動をつづければ、当然それは金利上昇を招くことになる。 先日来の金利動向を見ても明らかであろう。 更にいたるところへ公的資金を投入するとなれば、財政悪化および金利上昇に拍車がかかる。 これでは景気対策が逆に景気を冷え込ませてしまう。 金利上昇圧力なくして湯水のごとく公的資金を使う各種対策をつづけるために残る道はただひとつ、それは国債を市場に出さず直接日銀が引受けることである。 要するにただ札を刷ってそれで国債を買う訳である。 さて、日銀の国債引受けについては現在それが禁止されているのみならず、日銀のそして日銀券(円)の信用低下につながると批判する声が高い。 しかし、日本がデフレスパイラルから抜け出す手がかりも掴めないなか、「するリスク」ばかり論じていても仕方がないであろう。 「しないリスク」すなわち従来の経済政策を続けるリスクは日銀の国債直接引受けにまつわるリスクを上回るのではないか。 この辺の検討なき批判は現実的ではない。 更に日銀が円「売り」介入するほどの円高局面にあって、円安を恐れて国債の引受けはおろか買い入れさえも控えるというのはおかしなことである。 あくまで筆者の意見ではあるが、いわゆるハードランディングを取らない以上、金利を抑制し必然的に資金供給量を多くする日銀の国債引受けをやむをえない選択であろう。 ここで懸念すべきは引受け自体の是非ではなく、引受けにまつわる財政の際限なき拡大−政治リスク−であると考える。 大方の読者はお察しだと思うが、政治リスクとは「財源さえあれば、そして少しでも支出が正当化されれば、政治家はそれをばらまこうとする」リスクのことである。 「金さえあれば使ってしまい、再現なき財政の悪化を招く」ことを恐れるがゆえに、経済を理解している人の中にも日銀の国債引受け解禁に慎重な人が多いのであろう。 デフレ脱出の切り札たる非常手段、伝家宝刀であるからこそ、その乱用は慎まれるべきであり、逆に乱用を防ぐ手だてができてはじめて多くの関係者の理解が得られるはずである。 ところが現実は識者の懸念を強めるような方向に進んでいる。 前にこのコラムで、国債買い入れに消極的な宮沢大蔵大臣と速見日銀総裁を揶揄したが、今から思えば彼らは、この節度を知らぬ政治家に手が付けられなくなることを恐れたのかもしれない。 金がないのでしばらくおとなしくしていたと思ったら、景気悪化におびえる世間が財革法凍結を容認すると見るや、そして恐慌を恐れる人々が金融機関への公的資金投入を容認するだろうと見るや、政治家は一転してとてつもない規模の支出スキームを作り上げた。 大騒ぎになった住専への公的資金が一兆円にも満たなかったというのに、どさくさに紛れて今度はいきなり数十兆円である。 私などはいくらかかるかわからぬ金融の処理に何故何十兆円などというあってないような枠をつけるのか疑問であったが、今から思えばあれは「確保した枠は使ってしまえる」から枠をつけたのだろう。 枠がなければ無駄使いは厳しく監視されるが、枠さえつくってしまえばそれに収まっている限りは大騒ぎにはならない。 さて、最近の株式・土地買上げ構想や金融健全化(?)に株式市場は好意的なようであるが、為替・債券市場は懐疑的なようで円は下落に転じ、金利もまた上昇基調である。 株式市場については「株式買上げ構想に売り方が一部買い戻しをしたところ、たまたまテクニカル指標が好転し、あいつぐ借金棒引きが倒産リスクが後退したような印象を与えたことから市場参加者の心理が徐々に明るくなってきた」というような具合に感じられる。 しかし、昨年の今ごろや6月にも政策期待(それも随分怪しげな政策であった)で上げ、その後失望売りに大きく押されている。 今回も景気が回復に向かうか、景気の下げ止まりと金利の上げ止まり双方が確認できなければ、上げは一時的なものになる恐れは強い。 そして国債の日銀引受けなき各方面への大量の公的資金注入により景気浮揚を図ればそれは金利高騰を招くし、節度なく日銀が引受ければ円の暴落を招きかねない。 かくのごとく、国債の日銀引受けは伝家の宝刀ではあるが、それは両刃の剣である。 それを打出の小槌とせんとする政治家からいかにしてそれを守りつつ使ってゆくか、そこに日本経済の未来がかかっていると言っても過言ではあるまい。 政策当局および経済戦略会議がそれにどのように取り組んでゆくか、投資家は注視することが必要である。 *2月は所用により投稿が少なくなるかもしれませんがお許し下さい。 99/1/21(木)「企業メセナ」 ◆国会質疑で今更ながら野党議員が企業活動におけるメセナ(文化的スポンサー)の重要性について述べていた。 それに対して小渕首相もその重要性を認める旨答えていたようである。 思えばメセナという言葉はちょうどバブルが崩壊せんとする頃マスコミにもてはやされて流行したものだ。 景気が悪くなってからはボランティアがそれにとって代わったようだが、久々にメセナという言葉を政治家の口から聞いて以下の感想を持った。 企業が存在し活動するのはまず利潤追求のためである。 これは主にリベラル系の政治家、知識人、マスコミからは悪いことのように言われるが当然のことで、リスクに見合ったリターンが得られないならばよほどの篤志家以外は資本を提供せず、そもそも事業などできはしない。 しかし、ただ企業活動はいろんな形で社会に負の影響を与えることもあるため、なんらかの形で社会的貢献をすることが望ましいとは言えるだろう。 ゆえに十分な利益を上げている企業がスポンサーとして文化的な活動を支援することは結構なことである。 しかしながら、企業が社会的にもっとも貢献できるのは本来その本業においてである。 より良質な商品、サービスを競争力ある価格で提供することにより、企業は人々の生活を豊かにすることができる。 さらに商品・サービスにその企業なりの理念をもたせることにより、文化的にも貢献できるはずである。 製造業であれば環境にやさしい(く)商品を作る。 サービス業であれば人間性あふれるきめこまやかなサービスを提供する。 食品業界は食文化をリードすることができるだろうし、住宅業界は住文化に貢献できるだろう。 衣食住が量的に足りてきている現代において、それを質的(美的)に高めることは一つの文化であり、その分野で企業が貢献できることは大きいと思われる。 しかるに世でメセナと言われる場合多くは、企業が本業から離れて純粋にボランティア精神から支出し、なかなか商業ベースに乗らない芸術活動を支えることを指すようである。 それはコンサートであったり絵画展であったり文化施設であったりするのだが、純粋に商業ベースでは極端に入場料が高くなり庶民に近寄りづらい文化イベントを身近なものにするので、それらを余裕がある人々や企業が支えてくれることは確かにありがたいことである。 バブル末期にメセナという言葉が流行ったのは、有り余る金を持つものが急に増えたことと無縁ではあるまい。 バブルが崩壊して余裕がない企業が圧倒的多数を占めるに至ったが、今でも企業イメージ維持やこれまでの経緯からメセナ活動を苦しいながら続けている企業もかなりあるように聞く。 しかしそれは本当に正しいことなのだろうか。 それらの企業は本業でどれほどの成績を上げ、株主にどれだけ報いているのだろうか。 経営戦略上というより止むに止まれず社員・報酬を削減しているような企業がいまだメセナ活動を続けてはいないだろうか。 もし、本業は苦戦、配当は停滞、株価はじり貧、給与も雇用もカットをしていながらメセナというのであればそれは本末転倒であろう。 好調時に配当を押さえて内部留保を厚くした企業には数年の不振にもかかわらず少々の負担は問題がないのでメセナ出費を続けているところもあるだろうが、内部留保は本来株主のものである。 現状を見るにメセナの前に配当がなすべきことであろう。 また、研究開発費なども優先されるべきである。 繰り返しになるが、企業の存在目的の第一は利潤追求なのだから、資本に対して最低限のリターンを上げることは経営陣にとって義務である。 その義務も果たせないのにメセナというのは(厳しい言い方になるが)おこがましい。 メセナを行うのはROE10%程度上げている企業か、あらかじめ「文化的貢献を重視するため高いリターンは期待しないで欲しい」旨断った上で資本を集めた企業であるべきである。 (そんな企業に多くの資金を集められるはずがないと思われるかもしれないが、国民が企業理念の高邁さをそれほど要求するならそれなりに株主が出てきてよいはずである。) 高額納税者が好奇と皮肉の目でしか見られない日本では意識されないが、納税こそ最大の社会貢献でもある。 片方で脱税すれすれの節税をしながら、もう一方で「メセナでござい」はいかがなものか。(もっとも税の使われ方にどうにも納得できないというのであれば解らぬではないが。) メセナと同様にこの国で誤解されがちな概念にボランティアがある。 昨今、高校・大学入試でボランティア経験を加味するところが出て来て、内申書にも本人のボランティア体験が記載されるようになってきているようであるが、おかしなことである。 誰にも強要されず、見返りも要求せず自発的に行うからこその「ボランティア」であろう。 そもそもボランティア精神が必要だということ自体、「自発性を要求」していて自己矛盾である。学校では「情けは人のためならず」「お互いさま」だと利他の精神を教え、社会貢献を義務として教えればいいのである。 その結果ボランティア精神が発露すればそれは幸いなことであるし、しなければそれは国民性だと諦めるしかなかろう。 また義務を果たしてはじめて権利であるとこんこんと教えるべきである。 ところがマスコミも日教組も(企業や政府や政治家にはともなく)こと国民に関する限り権利ばかりで義務はどこへやらである。 そもそも企業ではなく、個人の富裕家がメセナたるべきであろう。 個人であれば自分で稼いだ金をどうしようが全く自由である。 ところが日本ではこれまで億単位で稼ぐ人は収入の大半を税として支払うことを余儀なくされ、とてもメセナという気分ではなかったであろう。 おまけに極めて高い相続税で、本家メセナのメディチ家のような富豪が生まれにくい土壌がある。 私は文化・芸術振興には税の累進度をずっと下げ、かつ/または寄付の所得/税控除を大幅に認めるのが良いと思うのだが、いわゆるリベラルな人々にはそれは受け入れ難いだろう。 それならば思うのだが、彼らお得意のNGO/NPOで民間から広く浅く寄付を集めて文化・芸術振興を成し遂げてはどうか。 大金持ちは作らない、だけど庶民は金を出さない、だから企業というのが企業メセナの起源で、それは不純であるのみならず大したものは生まないと私は思っている。 99/1/17(日)「新年無礼講:馬鹿の考察」 ◆筆者の数少ない蔵書の中に福田恒存全集があるが、その中で氏が自らの俗物研究の成果を面白おかしく披露している章がある。読んでいてつい笑ってしまうような文章で、ありとあらゆるタイプの俗物を描写しているが、中で面白かったものに「ある俗物にはかならずその対極の俗物が存在する。」というくだりがある。言葉は悪くなるが、筆者は「俗物」を「馬鹿」に置き換えてみたところ、現代に非常にうまくあてはまることに気が付いた。以下市場馬鹿と規制馬鹿をはじめとして、いくつかその例を上げてみることとする。 市場馬鹿とは、マーケット至上主義、すなわち自由放任してマーケットメカニズムにまかせれば全てうまくゆくという考えで凝り固まったもののことを指す。彼らによると、経済的問題は何かに付けてマーケット原理を妨げるもの、すなわち規制のせいにされる。彼らは経済マスコミに多いが、エコノミストにも少なからず存在するようだ。彼らの指摘はその部分部分ではもっともなことも多いので、なぜこれほどまでにマーケットに固執するのか不思議であったが、どうやらその理由は規制馬鹿の存在のためらしい。 このHPをご覧の方々には規制馬鹿については言及不要とも思われる。問題がおこればすぐに監督・規制によって対処しようというあの人々である。かれらが行う裁量行政という怪物にいやというほど翻弄されてきた市場関係者がそのカウンターバランスとして市場万能主義者になってしまったということには同情の余地がある。規制馬鹿さえいなければ彼らももうすこし市場の欠点についても冷静に見られることであろう。 では、規制馬鹿というのは生来のものなのであろうか。もちろん、エリート意識とそこから生まれる使命感によるところもあるのだろうが、それだけではあるまい。それには、さまざまな理由付けのもとに、みづからの利益を保護・規制によって守ろうとする守旧馬鹿の影響がある。彼らのあたまには社会全体の利益という概念などない。自分たちは弱者であり(ゼネコンや農協ですら今は弱者である)、弱者保護は何事にも優先さるべきだとの理屈で政治力を盾に押してくる。さらに何か問題が起ればこんどは社会マスコミが監督や規制の不備を書き立てる。日頃は敵対し合っている社長馬鹿と労組馬鹿も時に結託して自分達に有利な計らいを要求してくる。 (誤解を招かぬように補足するが社長が馬鹿であるとか、労組が馬鹿であるとかいうつもりはない。ちょっと儲かるとバカスカ報酬は取るは、外車は買うはウン十万のゴルフクラブは買うは、日々クラブ通いをして、景気が悪くなると平気で不当解雇するような経営者を社長馬鹿というのであり、会社が債務超過すれすれになってもまだ賃上げ・雇用維持を平気で求めるような労組を労組馬鹿と理解していただきたい。) さて、業界利益のためには結託する社長馬鹿と労組馬鹿であるが、これまた対で存在するものである。つまり自分の金儲けしか考えないような社長が少なからずいるから社員が労組を作って対抗するのであり、逆に経営の立場を考えない労組があるから社長が余計に私利に走るわけである。どちらの側も悪質な側ほど増長し、善意のある側ほど肩身の狭い思いをすることになるので皮肉である。またマクロで見れば対になっているとはいえ、個別の会社では悪徳社長の下に善良社員がいたり、またその逆であったりする場合も多いので自業自得とは言い切れない。 さて、先ほど触れた守旧馬鹿の対極として、改革馬鹿が存在する。現状が好ましからぬ場合、何をどのように変えるかによって改善にも改悪にもなるはずであるが、彼らには改革・変化そのものが善となる。考え方が似ているようなので、彼らは戦後一世を風靡した進歩馬鹿の生き残りまたは子孫なのかもしれない。彼らはいまだに良いことを「進んでいる」といったり、悪いことを「遅れている」と言ったりするが、これはまさしく変化自体を善ととらえる発想から来るものである。改めて言うまでもないが、世の中には流行に反していても価値のあるものごともあれば、流行にもくだらないものはいくらだってある。そのようなことすらわきまえずに「保守=悪」とみなせば守旧馬鹿はより頑なになるので必要な改革まで進まなくなる。 この他、人との違いを際立たせることばかりに執心する差異化馬鹿と同じでなければならないとする平等馬鹿、教育において箸の上げ下げまで指導しなければ気が済まず結果として言われなければ何もできない若者を生んでしまう管理馬鹿(規制馬鹿に通じる)と分別もつかない子供でも自主性ばかり重んじて結果として常識の欠落した若者を生む放任馬鹿、とにかく自分に都合のいいように筋をねじまげてまで理屈をこねる理屈馬鹿と理路整然と論理を組み立てるという努力を放棄し裏付けのない勘に頼る感性馬鹿、男尊馬鹿に男女平等馬鹿など俗物だけでなく馬鹿も多くは対で存在するようである。対極同志にらみ合いながら憎悪を増幅させがちなので間に生じる問題はなかなか解決しない。 ところが、この世の中には対極がない馬鹿もある。昨今物議をかもしている憲法馬鹿(平和馬鹿と権利馬鹿)である。種々雑多な思想・信条が混在する現代であるが、軍事侵略を積極的に主張する人物やこの世に権利など存在せぬという御人には筆者はお目にかかったことがない。大正以前の生まれの人々なら、強烈な戦争体験から強い厭戦・人権意識を持つということは理解できなくはないが、団塊の世代にそれが強いのはカウンターバランスがないだけにとても不思議である。戦後民主主義教育の影響を上げる人が多いが、そんなうわべだけで馬鹿といえるほど何十年も凝り固まり思考停止してしまうものかと不思議に思う。 さて、延々と人を馬鹿呼ばわりしておまえは何様かとお叱りを受けそうなので身分を明かした上でこの辺で退散させていただくことにするが、私は両極の間で取捨選択をしバランスを保つことに汲々としている「中庸馬鹿」でございます。 P.S.前回の冒頭で連合の鷲尾会長を誤って「事務局長」と書きましたのでここにお詫びし訂正いたします。 99/1/10(日)「夢での出来事」 ◆連合の鷲尾
平等も博愛も、自分が食えなきゃはじまらないと言う諸君、資本主義の世界へようこそ。 99/1/3(日)「分かれ目の年」 ◆1998年は株式市場のみならずそれなりに動きのある年であった。 長銀・日債銀の国有化に中堅ゼネコン国土開発の破綻。 財革法の凍結により財政再建路線から積極財政への転換。 不良債権処理および企業の資金繰り支援のための公的資金の投入決定。 遅きに失した感は否めないがようやく最初の一歩を踏み出した一年であった。 しかしながら、両銀行は清算されたわけではなく、公的資金の投入は銀行の申請によるというままにとどまった。 3月に長銀・日債銀に中途半端に公的資金を投入し、結果として捨て金となったやり方と大差がないものである。 また3月の失敗の責任もうやむやになっている。 積極財政に転じたものの、公共事業の内容は旧態依然としており、税制面でも投資促進・優遇策はこれといったものは出ていない。 マスコミは一年を通じて、あれが足りないこれが足りないと国民の側に立った(?)議論を展開してきたが、上記の対策が打ち出されるにつれて「国民の不安を解消するような政策」というわかりそうで実はよくわからないものを要求するようになった。 推測するにこれは雇用の確保、給与水準の確保、年金の確保、各種国民負担の軽減を伴う将来への確たる指針のことであろうが、それは果たして実現可能な要求なのだろうか。 「不安の解消」という以上それはハードランディングたりえない。 それはいくら長期的展望を伴っていても、一時的に非常な不安定な状況を作り出すからである。 現状でさえ将来の雇用・給与・年金に不安を抱いている国民が多いのなら、大量の実質破綻企業が現実に破綻し、社内失業者が実際に失業するようになればとても不安の解消とは行かないだろう。 そこで現政権はできる限り淘汰を回避し、雇用維持を図り、同時に目先の年金負担軽減と商品券配布というソフトランディングを取ろうとしているのであるが、これで本当に道は開けるのであろうか。 この期におよんでも、銀行へ投入される公的資金を横滑りさせる形で、ゼネコンなどの負債過重企業の債務免除をしたり、完全に行き詰まっていない中小企業には半ば無条件で公的保証を付けかたやで大幅に従来型公共投資も増やすという延命策を政府は取っているが、これは倒産こそ減少させるであろうが企業収益にはむしろマイナスに働くのではないか。 延命される限界的企業には「採算など考えていられない、とにかく仕事を取るのだ」というところも多く、結果として相場を崩し健全企業の利ざやを縮めてしまう。 これが健全企業同志の競争ならば淘汰・業界再編を経てやがては正常な利ざやが期待できるのであるが、現状ではいつまでたっても実力ある企業でも十分な営業利益がなかなか上げられない。 もちろん、この不況下でも高収益企業は存在するが、だからといってそこそこ実力ある企業が努力次第で皆増益基調になるかと言えば、雇用や給与水準に大きく切り込まない限り難しいであろう。 一部の優秀な国民だけが食えてゆければ良いとは誰も言わないように、一部の優秀な企業だけが利益を上げられるのが良い経済システムだとは言えないだろう。 ほどほどの企業が数%のビジネスリスクに見合ったリターン(いまならROE5−6%であろうか)を上げられないのだとしたら雇用や給与水準に切り込む他あるまい。 逆の言い方をすれば、雇用や現行の給与水準を聖域とした時日本経済に出口はあるのだろうか。 生産性の短期急上昇は望み薄なので、聖域を守るとすれば企業収益にしわ寄せが行かざるをえず、結果として株価は低迷するであろう。 昨今のように長期金利が上昇すればなおさらである。 投資環境が改善しなければ少なくとも海外からの資金は出超となるし、何かのきっかけで国内資金の流出が加速する可能性も低くないだろう。 資金流出および円安はさらなる金利上昇を招き景気の足を引っ張るだろう。 ソフトランディングを選んだ以上日本はまだ時間をかけて過去の清算をしてゆかねばならないので、低金利と好投資環境は当分日本経済の命綱である。 聖域を守り、かつ企業収益好転を伴う経済成長を実現する可能性はないではない。 実質と名目の差、すなわち若干のインフレを利用する手もある。 しかしながら、日銀が国債引受けどころか市場からの買い入れにも難色を示す現状ではこの第三の道は閉ざされている。 しかもこの財政状況とくれば財政政策のエンジンをふかし続けて成長軌道に乗せるのも無理がある。 日銀が円安も物価上昇も容認しなければ財政出動は金利上昇に結び付いてしまう。 負債の削減が遅々として進んでいない現状で金利が顕著に上昇すれば、国民とくに高年層は喜ぶであろうが企業セクターは大変である。 結局今やっていることは、国民のお金を本人が知らぬ間に政府が拝借して、苦境にある金融機関や高負債企業に融通して、預金が給料がちゃんと支払われるようにしているに過ぎない。 政府セクターも民間企業セクターも山のような負債を抱えて全体として払い続けられる金などなくなっている。 それなのに、雇用も給与も年金も維持するということは、結局国民の懐から気づかれないように取ってきて、それを給料袋に入れて渡しているという茶番劇である。 こんな自転車操業は長くは続かないと機転が利く人や私のコラムをずっと読んでくれている人は気づくが願望で物を見る人は気づかない。 気づかない人びとは政府に対して、1)収入の停滞、失業増大をなんとかしてほしいし、社会保障は充実して欲しい、2)高いコスト(公共工事、公共料金、住宅建設費用、税金他)を引き下げて欲しい、と要求する。 どちらか一方ならわかるが、両方の要求を実現するのは神業のようなものである。 ここまで国民の平均所得水準が上がってきたのは、高い単価により水増しされた売上げ、株高・土地高に代表される高い資産価格が生産性の裏打ちのない高い給与を可能としてきたからである。 つまり高収入・低失業と高コストは表裏一体ということになる。 高いコストと決別するためには収入格差(全体としての収入減)と失業率上昇を受け入れねばならないし、雇用と名目給与水準を優先するのであれば、コスト削減は生産性上昇分のみを甘受するしかない。 マスコミがそして世論という怪物が支配した戦後日本では、それらによる「いいとこ取り」が横行し続けた。 公益法人、一部大企業の関連会社などまだ「絞れる」ところはあろうが、全体として国民はもう取るものがなくなってきた。 これからは良くてギブ・アンド・テイクであろう。 そうとわかれば失業率上昇も企業倒産もそれ自身悪い兆候とは言えないだろう。 淘汰・再編へ進めるか、それとも自縄自縛のままデフレ(もしくはスタグフレーション)の淵に沈むか今年はまさに分かれ目となる年である。 勿論事態が好転することを望むが、投資家としては日本が沈む場合でも一足先にそれを察知して行動するしかない。 海外要因を読むのは至難ではあるが、日本市場(経済・社会)のゆくえを読む鍵について考えてみた次第である。 |
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